東西線の歴史

戦前の計画から開業まで

現在の東西線の元となったのは、1917年に内務省の「東京市内外交通調査委員会」における答申で示された「池袋~飯田橋~洲崎(現在の東陽町駅付近)」の建設計画だった。その後「東京鉄道」という鉄道会社や東京市に対して本区間の路線敷設の免許が交付されるものの、建設されることなく戦後を迎える。

戦後間もない1946年、戦災復興院が復興計画の一つとして5つの地下鉄路線を計画。このうち中野~高田馬場~水道橋~大手町~東陽町を結ぶ路線を5号線とした。1957年の交通政策審議会では経由地を水道橋から飯田橋に変更、加えて分岐線として大手町~神保町~水道橋~巣鴨~板橋~下板橋を計画した。前者は中央線、後者は丸ノ内線の混雑緩和が狙いである。1960年8月、営団地下鉄は5号線の建設基本計画を策定する。この時中野で中央線と、下板橋で東武東上線と接続し、両者と相互直通運転が予定された。これに先立ち、同年7月に国鉄と事前協議が実施されるが、東武との協議は行われず、1962年には計画されていた区間に加え、東陽町から船橋方面に至る路線という計画に改められ、分岐線は都心を縦貫して泉岳寺以南へ向かう6号線に改められた。同年には最初の開業区間である高田馬場~九段下間が着工、2年後の東京五輪が開催された1964年12月23日に開通した。この年に東陽町~西船橋間は浦安と行徳を経由し西船橋で総武線と接続する計画となり、混雑が激しくなっていった中央線や総武線のバイパス路線として位置づけられるようになる。それを示すかのように、1966年には中野まで開業、少し遅れて当時中央線の複々線区間の終点であった荻窪まで直通運転を開始する。なお、この時九段下~竹橋間も同時に開業し、半年後には大手町まで開業した。

東西線で最も古い駅の一つ、高田馬場駅
近年まで開業当時の面影を残していた竹橋駅

延伸開業と相互直通運転

1967年には東陽町まで開業、翌1968年には西船橋から東武野田線方面に延伸する計画となった。そして1969年には東陽町~西船橋間が開通、現在の東西線が出来上がった。この時東陽町~西船橋間をノンストップで走る快速電車の運転が開始された。当時東西線地上区間は農漁村地帯であり、人口が少ない地域で各駅の利用者が少ないと見込まれたため、都心方面との時間短縮と適正な輸送需給バランスを図るため地下鉄では初の快速列車が走ることになった。南砂町以東が地上区間となったのは、当時の技術では荒川と中川をトンネルで横断できなかったことに加え、農漁村地帯のため地下線で建設する必要性がなかったため。しかし今後の発展が見込まれたことに加え、当時すでに他の郊外路線では開かずの踏切の問題に直面していたことを踏まえ、地上区間は全線が高架線で建設された。1970年代以降に開業した鉄道路線は、踏切を一切設置しない路線が主流となったが、東西線はその先駆けともいえるだろう。

用地買収が容易であったことに加え、快速運転を前提にルートを選定したため地上区間は線形に恵まれ直線区間が多い。このうち浦安~下妙典信号場(現妙典駅)間は直線区間となっており、これを生かして千代田線6000系試作車のテスト走行に使用されたことがある。西船橋まで開通し少し遅れて、中央本線の複々線区間が三鷹まで延長し、同時に東西線の乗り入れ区間が三鷹まで延長される。同時に総武本線津田沼までの乗り入れも平日および土曜日朝夕に限り開始されたが、総武本線の錦糸町~津田沼間が複々線化されるまでは夏季に休止期間が設けられていた。当時は東京と房総各地への往来は総武本線が一手に引き受けており、夏季の行楽シーズンは臨時列車が多数運転されるため、東西線直通列車はそのために枠を譲っていた。

​1972年には西船橋から東武野田線方面に延伸する計画を勝田台を終点とする計画に改められた。この区間は「営団勝田台線」として営団地下鉄が建設する予定だったが、営団地下鉄が採算性などの面から建設に難色を示したこと、並行する京成電鉄の経営悪化に対する配慮などから建設が凍結された。しかし当該区間は第三セクター方式で建設されることになり、1996年に東葉高速線として開業している。

行徳駅から妙典駅を望む
千代田線6000系試作車
東葉高速線を走る07系

重要路線となった今と未来

東西線の開通により、特に地上区間沿線では急速に宅地化が進み沿線人口が急増し慢性的な混雑に悩まされるようになった。そこで1991年にはドア幅を500mm拡大したワイドドア車両を導入したが、ドアの開閉に時間がかかりかえって遅延に拍車がかかるとして1993年に製造された車両以降は通常のドア幅に戻された。しかし東葉高速線との直通運転開始、さらに東葉高速線沿線の発展によりより一層混雑が激しくなり、2010年には再びワイドドアを備えた15000系が導入されている。これ以外にも朝ラッシュ時におけるB線の優等列車を通勤快速に統一、時差通勤促進キャンペーンの通年実施を行ってきたが、ソフト面での対策が限界に行き詰まり、ハード面の対策を打つようになる。

2010年代半ば、東京メトロは南砂町駅、木場駅、茅場町駅で混雑緩和のための改良工事を行うほか、九段下駅に設けられていた引き上げ線を飯田橋駅に接続して連絡線とし、事実上線増を行う改良工事を行うことを発表、着手された。しかし各所とも終電後の短い時間で作業を進めなければならない他、未知の埋設物や緩い地盤などに阻まれ、工事は10年以上経過した現在も茅場町駅以外は終わりの兆しが見えていない。2020年には新型コロナウイルスの感染拡大により行動様式が一変、増加傾向であった東西線の混雑は一転して緩和された。加えて2022年には豊住線の建設が正式に決まり、最も進捗が遅かった木場駅の改良工事は休止されている。しかし新型コロナウイルス禍から5年が経過し、徐々に行動様式も元に戻りつつある中、東西線の混雑も再び激しくなりつつある。今後も南砂町駅改良工事と連絡線設置工事は地道に進められ、大いに役立つ日が来るだろう。

ワイドドア
混雑したホームと15000系
改良工事が進む南砂町駅